将棋から考える。民主主義は最善なのか(その1)。

初めてブログ開設し、趣味の将棋ネタをこんなに書くつもりはなかったのですが、藤井・ひふみんフィーバーに乗っかって、少し記事の本数を重ねました。時事に沿ったほうが、ブログというのは書きやすいようです。読んで頂いて、もっと役に立つような話題や、固い話になりますが、人間や社会の本質をつくようことも書いていきたいと思っています。後者については、考えをうまく文章にまとめられるのか、またその考えが凡愚で、ご批判も賜わるのではないかと、不安ではあります。

さて見出しのテーマです。他の偉い先生の著作を読んでの、受け売りも多いですが、ご了承下さい。

将棋において、アマチュア初段のメンバー100人が合議で決定した手よりも、プロの羽生先生一人が決めて指した手のほうが、正しいに違いありません。どんな分野においても、平凡な者たちの衆知を集めたものより、天才一人の知恵のほうが、優るでしょう。政治の世界においても、天才政治家が独裁で行なうのが、おそらくベストでしょう。しかし独裁体制は、一歩間違うと、時に暴走し、国民を不幸のどん底に陥れるような者が現れるおそれがある。民主主義は、ベストな方法ではありませんが、危険な独裁政治を防ぐための、いわばセカンドベストの方法として、選択されていると考えるべきでしょう。とはいえ、ヒトラーは民主主義的な手続きの中から生まれたのであって、民主主義が、必ずしも危険な独裁者の出現を阻止できるわけでもありません。民主的な手続きで選ばれた場合であっても、行政と立法と司法の三権を手中にできれば、簡単に独裁政治は実現可能です。為政者が、好き勝手な法律を作って、それを実行して、それに背く者は処罰できるようなことが可能であれば、恐ろしいリバイアサン、専制政治の誕生です。どちらかといえば、独裁政治の防止は、三権分立の制度のほうが担っているといえます。古代アテネにおいては、独裁僣主が現れるのを防ぐため、陶片追放(僣主を狙うと思われるものを投票にかけ一定数を超えると国外追放されるという方法がとられました。良し悪しは別として、古代世界においても、政治システムの構築のため、さまざまなアイデアや工夫が試行錯誤されていました。現代においては、人間の科学進歩はめざましく発展しましたが、政治システムは、思考停止のように、あまり疑われることもなく、民主主義がよいものとされています。でも、どうなのでしょうか。また、いまだに専制政治が世界中で行なわれており、政治は古代よりあまり進歩していないように思えます。(続く)