コピー機の節約

ネット販売でおそらく私がいちばん得できたのは、中古コピー機の購入でしょう。新品であれば50万~100万円以上もするコピー機が、ヤフオクだと5万円以下で買える。トナーはカートリッジタイプにし、リサイクルを利用すれば、1枚あたり1~2円程度のコストで印刷できてしまいます。壊れた場合は、メーカーによる修理も考えられますが、保守契約していないと、簡単な修理でも数万円かかることあるので、買い換えたほうが得なことが多いです。仕事がら、ハードにコピー機は使いますが、故障(たいてい部品の劣化)で使えなくなるのは、5~10年後ぐらいでしょうか。壊れたコピー機の処分は結構、問題となります。ヤフオクに出すのは、手間な上、故障品だと、わりが合いません。行政に頼むのが正しいと思いますが、自治体によっては数万円の処分費がかかるしれません。私の地元にある日本語の少しあやしい買取業者は、壊れたものでもコピー機を喜んで引き取ってくれます。自宅まで回収してくれた上、買取費までくれたりします。ただしこの方法は、おすすめはしませんし、自己責任ということでお願い致します。

自動車オイル交換のムダ?

ガソリンスタンドでは、自動車のエンジンオイル交換を、3000㎞ごとに勧めてきます。それぐらい走って調べてもらうと、「オイルが真っ黒に汚れている。早めに交換したほうがエンジントラブルがない」と説明してきます。私も昔はそれを信じて、早めに、5000㎞位で交換していました。しかし疑問を持ち、自動車の説明書をみてみると、オイル交換は15000㎞ごとに交換と書かれています。どちらが正しいか、ネットでも調べてみました。ヨーロッパでは、もっと長い走行距離でも、交換不要となっているようです。整備工などの意見では、早いオイル交換を勧める意見もあり、賛否両論です。読んでいて、やはりエンジンを長持ちさせ、車の長く乗るなら、無難に早めにオイル交換ぐらいやっておくべきかとも思いました。しかし、よく考えてみると、自動車の説明書が勧める15,000㎞で交換したのにもかかわらず、オイルのためにエンジントラブルが起こり、事故が起こったとしたら、どうなるでしょう。自動車メーカーは壊滅的な賠償を払うことになり、倒産の危機さえ招きかねません。説明書の文面だけのことなのに、メーカーそんなリスクをメーカーが負うはずがありません。

結論として、説明書の勧めるオイル交換より、早めのオイル交換など必要ないということです。少し走ればオイルが汚れるというのは、ガソリンスタンドの営業トークでしょう。

早めのオイル交換は、消費者にムダな出費をさせ、しかもエコにも反する行為です。

今の日本では、本当に経済的にエコになることと、ペットボトルの回収のような政治的に作り上げられたムダな詐欺的なエコが混在しています。ネット社会で、情報はあふれかえっていますが、本当に正しい情報を見分けるのは、簡単なことではないようです。

民主主義は最善か(その2)

政治にとって、民主主義はベストな方法ではありません。でも、国民にとっては、選挙という行動を通して、自分たちが代表者を選べるので、民主主義はたいへん受け入れやすい政治制度です。また選んだ政治家が気に入らないのなら、次の選挙で落せばいいので、革命や暴動が起こりにくい。政治家にとっても、悪い政策を行なっても、国民からの信託を受けているのだからと、責任回避できる都合のいい制度です。でも、民主主義には、外見だけで判断してひどい政治家を選んでしまったり、次の選挙で落されないように、痛みを伴うようなことは先のばしにし、国民に媚びを売るその場しのぎの政策を政治家が行ないやすいなどの欠点があります。

民主主義よりも、選挙によらない賢人による独裁政治なら、国民全体にとって、きっと優れた政策を実行できるでしょう。しかし選挙を経ない独裁は、下手をすると、一部不利益を被る者たちによる革命や暴動が起こり、処刑のリスクさえあります。

強大な権力は得たい、でもリスクはとりたくない、そう考える独裁者なら、形だけの民主主義を取り入れて、不正な選挙(または自分が選ばれやすい選挙制度にする)を行ない、自分が選挙によって選ばれた形にするのが、得策でしょう。

所詮、人間は動物であって、人間社会全体のことを考えて合理的に行動などせず、自分のエゴで動きます。理想世界の共産主義は受け入れられず、貧富の差が生み、矛盾だらけであっても、人間のエゴを満足させる資本主義を好む。賢人による独裁政治よりも、愚者による民主政治を好む。結局、人間社会では、人間の動物性が満たされないと、どんな優れた制度があったとしても、成立しないということです。

将棋から考える。民主主義は最善なのか(その1)。

初めてブログ開設し、趣味の将棋ネタをこんなに書くつもりはなかったのですが、藤井・ひふみんフィーバーに乗っかって、少し記事の本数を重ねました。時事に沿ったほうが、ブログというのは書きやすいようです。読んで頂いて、もっと役に立つような話題や、固い話になりますが、人間や社会の本質をつくようことも書いていきたいと思っています。後者については、考えをうまく文章にまとめられるのか、またその考えが凡愚で、ご批判も賜わるのではないかと、不安ではあります。

さて見出しのテーマです。他の偉い先生の著作を読んでの、受け売りも多いですが、ご了承下さい。

将棋において、アマチュア初段のメンバー100人が合議で決定した手よりも、プロの羽生先生一人が決めて指した手のほうが、正しいに違いありません。どんな分野においても、平凡な者たちの衆知を集めたものより、天才一人の知恵のほうが、優るでしょう。政治の世界においても、天才政治家が独裁で行なうのが、おそらくベストでしょう。しかし独裁体制は、一歩間違うと、時に暴走し、国民を不幸のどん底に陥れるような者が現れるおそれがある。民主主義は、ベストな方法ではありませんが、危険な独裁政治を防ぐための、いわばセカンドベストの方法として、選択されていると考えるべきでしょう。とはいえ、ヒトラーは民主主義的な手続きの中から生まれたのであって、民主主義が、必ずしも危険な独裁者の出現を阻止できるわけでもありません。民主的な手続きで選ばれた場合であっても、行政と立法と司法の三権を手中にできれば、簡単に独裁政治は実現可能です。為政者が、好き勝手な法律を作って、それを実行して、それに背く者は処罰できるようなことが可能であれば、恐ろしいリバイアサン、専制政治の誕生です。どちらかといえば、独裁政治の防止は、三権分立の制度のほうが担っているといえます。古代アテネにおいては、独裁僣主が現れるのを防ぐため、陶片追放(僣主を狙うと思われるものを投票にかけ一定数を超えると国外追放されるという方法がとられました。良し悪しは別として、古代世界においても、政治システムの構築のため、さまざまなアイデアや工夫が試行錯誤されていました。現代においては、人間の科学進歩はめざましく発展しましたが、政治システムは、思考停止のように、あまり疑われることもなく、民主主義がよいものとされています。でも、どうなのでしょうか。また、いまだに専制政治が世界中で行なわれており、政治は古代よりあまり進歩していないように思えます。(続く)

 

藤井四段とハロー効果・ピグマリオン効果

藤井四段がデビュー29連勝を達成した。奨励会三段リーグの成績が13勝5敗で、この勝率で考えれば、29連勝は、確率的には奇跡(約0.008%、12500分の1の確率)である。では三段リーグが強すぎるのかといえば、そうとも言えない。ここ数年、藤井四段以外で三段リーグを抜け、四段になった者の成績は、ざっと調べた限りで、13勝10敗、9勝4敗、27勝16敗、18勝16敗、36勝19敗といったところである。三段リーグよりも、勝率は落ちている。では、なぜ藤井四段だけが、プロになった四段後、なぜこんなに勝てているのか。「神」の思し召しということで結論づけてもいいのかもしれないが、ここは教育心理学用語のハロー効果・ピグマリオン効果で考えてみたい。ハロー効果は光背効果とも言われ、いわゆる後光がさすというものだ。最年少での中学生プロ、詰め将棋の天才で読みが深く、終盤が無類の強さがあると相手がいわば物怖じして、手が伸びずに負けてしまう。これは私が将棋倶楽部24の将棋サイトで指していてもよくあることで、レーティング上の相手には、何となく気後れし、普段よりミスが多くなる。あとひとつ、ピグマリオン効果は、人から期待をかけられると、実力が十分に発揮でき、成績が向上するというもの。三段リーグでは、対局者は人生をかけて勝負しているのだから、ハロー効果で敵にひるむようなことはなく、また本人は期待よりもプレッシャーのほうが大きく、ピグマリオン効果も出ない。こんな勝手な分析をしてみたのだが、どうだろうか。「ハロー効果、ピグマリオン効果といってみたかっただけじゃないの」という読者諸兄のツッコミは、素直に認める覚悟であります。

コンピュータ将棋の強さ、将棋の深さ

勝敗を決するまでの将棋の手の数は、宇宙に存在する原子の数よりも多いと言われている。だから、いくら人工知能の発達しても、将棋の手をすべて読み切るのは不可能とされる。今のコンピュータ将棋は、人間の作りあげた定跡は無視して、全部の手を読む+コンピュータ同士の対局の繰り返しの手法でブレイクスルーし、とてつもなく強くなった。しかし、名人に勝利したポナンザの開発者は、これ以上ソフトを強くする方法が、わからないとも言っておられる。コンピュータ将棋の発達で、注目されることの一つは、将棋に必勝法があるのかということだが、少なくとも、今のコンピュータ将棋のレベルでは、それが見つかる可能性は極めて少なそうである。単純な動きの8種類の駒があるだけのたった81コマの世界でも、もはや「神」のレベルに達したコンピュータソフトを駆使しても、解明できないほどの深い世界がある。広い世の中の事象ともなれば、人知がはるか及びようもない真理が、満ちあふれているのは当然のことである。天才といえども、たかが人間が考えるようなことなど、「神」の作り上げた真理の前では、児戯に等しいのだろう。

コンピュータより弱い将棋のプロの存在意義はあるのか?

人工知能の前には、人間の将棋はもはや敵わなくなった。現名人の佐藤はコンピュータソフトのポナンザの前に、全く歯がたたなかった。またあるトッププロは、コンピュータとのレーティング差が、1000点はあることを語っている。この差は、とんでもなく大きく、おそらく100戦やっても1回も勝てないぐらいの差だろう。そんな中、コンピュータより弱い将棋のプロに存在意義があるのかという疑問は、当然起こってくる。

その昔、NHK杯の将棋で、人情味あふれる解説でも人気であった石田九段が、精密機械と呼ばれた若き佐藤康光元名人(現将棋連盟会長)に、佐藤の研究手順にはまり、なすすべなく負かされたとき、石田九段いわく「まるでコンピュータと指しているみたいで、人間の将棋じゃない。まったく面白くない」とぼやいていた記憶がある。今となっては、佐藤将棋はたいへんユニークで(ひょっとして石田九段のこのときの発言がグサッときたのかも)、また会長になられるぐらいだから、人望も人間味もあることは明らかであるが、当時はミスしない将棋マシーンのように思われていた。将棋の面白みの一つは、将棋を通して、相手の人間を知ることができることである。将棋を指したり、鑑賞して、相手が「弱いなあ」「強いなあ」「メチャやるなあ」「臆病だなあ」、そういったことを感じとれることが、面白い。自分の将棋と比べて、プロの将棋の技量が「すごいなあ」と感じたり、ときに人間らしく間違えるから、プロの将棋を面白く感じる。人格の一面をかいま見れるところが面白いのである。だから、人格のないコンピュータが人間にいくら勝とうが、プロ棋士の存在意義は少しも薄れないのである。コンピュータ同士が競う将棋対局もあるが、どのコンピュータが強いとか、その棋譜にはあまり興味はもたれない。

あともう一つ、これはよく指摘されていることだが、人間の将棋であれば、羽生名人であろうが、藤井四段であろうが、ある程度の将棋の実力があれば、解説があれば、指し手の意味がわかる。いわば、将棋にストーリーがある。しかしコンピュータの将棋は、読み手が深すぎて、人間の理解を超えている。いわば分数を学んでいる小学生に、微積分の本を読めというようなものだ。

こんなわけで、いくらコンピュータが強くなっても、将棋のプロは存続することができるだろう。逆に将棋のプロが存在できなくなるときというのは、プロを支える将棋の愛好家が一定数を下回ったときだろう。例えば、将棋のプロの主な収入源は新聞社が主催する棋戦だが、総額2億円の棋戦があるとして、これを新聞年間購読料約3万6千円で割ると約5500、つまり将棋欄をみたいから新聞をとる人が最低5500人いれば、損得勘定として、その棋戦をやる意味があるが、下回ると棋戦打ち切りとなりかねないということである。今の若手のプロの中には、そのことに危機感をもち、将棋ファンを増やそうと、男芸者になることも厭わず、努力している人もいる。今の藤井四段やひふみんのフィーバーは、停滞気味である将棋界にとって、神風が吹いているといえよう。