コンピュータより弱い将棋のプロの存在意義はあるのか?

人工知能の前には、人間の将棋はもはや敵わなくなった。現名人の佐藤はコンピュータソフトのポナンザの前に、全く歯がたたなかった。またあるトッププロは、コンピュータとのレーティング差が、1000点はあることを語っている。この差は、とんでもなく大きく、おそらく100戦やっても1回も勝てないぐらいの差だろう。そんな中、コンピュータより弱い将棋のプロに存在意義があるのかという疑問は、当然起こってくる。

その昔、NHK杯の将棋で、人情味あふれる解説でも人気であった石田九段が、精密機械と呼ばれた若き佐藤康光元名人(現将棋連盟会長)に、佐藤の研究手順にはまり、なすすべなく負かされたとき、石田九段いわく「まるでコンピュータと指しているみたいで、人間の将棋じゃない。まったく面白くない」とぼやいていた記憶がある。今となっては、佐藤将棋はたいへんユニークで(ひょっとして石田九段のこのときの発言がグサッときたのかも)、また会長になられるぐらいだから、人望も人間味もあることは明らかであるが、当時はミスしない将棋マシーンのように思われていた。将棋の面白みの一つは、将棋を通して、相手の人間を知ることができることである。将棋を指したり、鑑賞して、相手が「弱いなあ」「強いなあ」「メチャやるなあ」「臆病だなあ」、そういったことを感じとれることが、面白い。自分の将棋と比べて、プロの将棋の技量が「すごいなあ」と感じたり、ときに人間らしく間違えるから、プロの将棋を面白く感じる。人格の一面をかいま見れるところが面白いのである。だから、人格のないコンピュータが人間にいくら勝とうが、プロ棋士の存在意義は少しも薄れないのである。コンピュータ同士が競う将棋対局もあるが、どのコンピュータが強いとか、その棋譜にはあまり興味はもたれない。

あともう一つ、これはよく指摘されていることだが、人間の将棋であれば、羽生名人であろうが、藤井四段であろうが、ある程度の将棋の実力があれば、解説があれば、指し手の意味がわかる。いわば、将棋にストーリーがある。しかしコンピュータの将棋は、読み手が深すぎて、人間の理解を超えている。いわば分数を学んでいる小学生に、微積分の本を読めというようなものだ。

こんなわけで、いくらコンピュータが強くなっても、将棋のプロは存続することができるだろう。逆に将棋のプロが存在できなくなるときというのは、プロを支える将棋の愛好家が一定数を下回ったときだろう。例えば、将棋のプロの主な収入源は新聞社が主催する棋戦だが、総額2億円の棋戦があるとして、これを新聞年間購読料約3万6千円で割ると約5500、つまり将棋欄をみたいから新聞をとる人が最低5500人いれば、損得勘定として、その棋戦をやる意味があるが、下回ると棋戦打ち切りとなりかねないということである。今の若手のプロの中には、そのことに危機感をもち、将棋ファンを増やそうと、男芸者になることも厭わず、努力している人もいる。今の藤井四段やひふみんのフィーバーは、停滞気味である将棋界にとって、神風が吹いているといえよう。